河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

火の用心


                                   昭和のあの頃


                  過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                       それによって、心に喜びを感じさせる。
                       不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                   その21     火の用心

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「火の用心」という言葉が使われた古い記録としては、徳川家康の家来である本多作佐衛門が家族へ送った短い手紙が広く知られている。手紙の本文は次のとおり。
『 一筆啓上 火の用心 おせん泣かすな 馬肥やせ』
この手紙は、1575年の長篠の戦いにおいて、戦場の本多作佐衛門が浜松城にいる家族へあてたもの。


【代表的な掛け声】
「火の用心」の夜回りの掛け声をいくつかまとめてみたい。掛け声がなく、拍子木を打つだけの地域もあるだろう。

        『火の用心 マッチ一本 火事の元』   『戸締り用心 火の用心』
  『秋刀魚(さんま)は焼いても 家焼くな』   『焼肉焼いても 家焼くな』


【拍子木の音がうるさい?騒音問題に発展】
現代における「火の用心」の夜回りでは、地元の消防団が夜の9時頃にカチン!カチン!と鳴らす拍子木の音が、近所迷惑・騒音問題としてトラブルに発展する事がある。
我が日本が誇る伝統文化が、反日クレーマーの標的にされるとは…………(泣)。

 

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ままごと


                                          昭和のあの頃


                        過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                             それによって、心に喜びを感じさせる。
                             不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                         その20    ままご

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ままごととは、

ままごと(飯事)とは、幼児の遊びの一種。おままごとともいう。分類上はごっこ遊びの一種と考えられており、身の回り人間によって営まれる家庭を模した遊びである。参加する人を、お父さん、お母さん、赤ちゃん、ペットなど家族に見立てた役を振り分ける。そして、家の炊事・食事・洗濯・買物・接客等を模倣する。主に女の子の遊びとされる。

 

主に女の子の遊び。〈まま〉は食物のことであり,〈こと〉はハレの日の行事を意味する語であるから,ままごととは元はハレの食事のまねごとであった。遊びとしてのままごとは,食物調理,炊事,贈答,饗応,訪問などの真似事であるが,その中心になるのは主婦である。母親の生活を真似のである。

 

ままごととは、子供が調理の真似事をして遊ぶことで、日常での生活全般を真似た遊びも含まれます。日本だけでなく世界中で女の子を中心に遊ばれています。遊びを通して脳の発育を促す効果があり、単に玩具としてだけでなく、現在では知育玩具として様々な種類が発売され、評価を得ています。

銭 湯


                                   昭和のあの頃


               過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                     それによって、心に喜びを感じさせる。
                     不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


          その19     銭 湯


銭湯とは、

  もともと江戸時代の公衆浴場には、分類として風呂屋湯屋があった。

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水蒸気に満ちた部屋に入って蒸気を浴びて汗を流す、蒸し風呂タイプの入浴法で営業している浴場を風呂屋と呼び、沸かした湯を浴槽に入れ、湯を身体に掛けたり、浸かったりするタイプの入浴法で営業している浴場を湯屋と呼んで区別していた。

 

しかし、江戸時代中頃に入浴法の発達や、兼業して営業する業者が現れるようになった。喜田川守貞が書いた『守貞謾稿』(巻之二十五)の「京大坂にては風呂屋と俗に云ひ、江戸では湯屋と云ひ訛る」との記述があるように、地域によって呼び方は異なることはあるが、風呂屋湯屋は混同されて使用されるようになった。

 

『その歴史』 日本に仏教伝来した時、僧侶達が身を清めるため、寺院に「浴堂」が設置された。病を退けて福を招来するものとして入浴が奨励され、貧しい人々や病人・囚人らを対象としての施浴も積極的に行うようになった。

 

太平洋戦争後、本格的に都市人口が増大すると、至るところで銭湯が建築された。1965年(昭和40年)頃には全国で約2万2000軒を数えるようになった。

尚、我が徳島県では 1996年(平成8年) に61軒あったが、 2018年(平成30年) には25軒にまで減少している。

金魚売り


                                      昭和のあの頃


                 過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                      それによって、心に喜びを感じさせる。
                      不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                      その18       金魚売り

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金魚売りとは

金魚売り(きんぎょうり)とは江戸時代後期に登場した金魚を売り歩く商人。またはその職業。夏の季語でもある。

夏の間、涼しい時間帯に天秤棒に提げたたらいの中に金魚を入れ、独特の甲高い売り声を上げながら街中をゆっくりとした足取りで売り歩いた。

金魚売りの多くは日銭を稼ぐために短期で勤めていたものらしく、冬になると扇の地紙売りなど別の仕事を請け負っていたようである。水の入ったタライを担ぐため意外に重労働であり、金魚売りの多くは若者であった。江戸時代後期には町人の間に金魚を観賞魚として飼育する習慣が広まり、金魚鉢(ガラス製の球形の水槽)に藻などを入れて飼育するようになった。

 

「きんぎょ~えっ、きんぎょっ。あぁ~、コイの子に、メダカの子」
30kgの桶を2つ1.3mの天秤棒で肩に担いで、伸びのある声で歩く熊本の浦島さん。昭和40年代まで、「金魚ふれ売り師」と呼ばれた人々は全国に1000人以上いたが、今では浦島義弘さん(80)一人になった。

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浦島さんを地元で知らぬ人はいない。近所の公園でひと節声をあげると、「あ、金魚のおじさんだ!」と、たちまち子供たちが取り囲む。「1人でも多くの子供たちに『金魚のふれ売り』という文化があることを知ってもらいたいですね」(浦島さん)
地域のイベントや小学校の課外授業に引っ張りだこの浦島さんは、「年をとる暇もない」と笑う。

赤チン


                                     昭和のあの頃


                     過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                        それによって、心に喜びを感じさせる。
                        不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                           その17   赤チン

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赤チンとは、

マーキュロクロム液は暗赤褐色の液体であり、赤チン(あかチン)の通称で知られている。これは「赤いヨードチンキ」の意味で、同じ殺菌・消毒の目的で使われる希ヨードチンキが茶色なのに対して本品の色が赤いことからつけられた。ただしマーキュロクロム液は水溶液であり、「生薬をエタノールに浸したもの」を指すチンキ剤ではない。

 

マーキュロクロム液は、メルブロミン(merbromin)の水溶液(メルブロミン液)の商品名であり、皮膚・キズの殺菌・消毒に用いられる局所殺菌剤である。メルブロミンは有機水銀二ナトリウム塩化合物であり、フルオレセイン骨格を有する。

 

メルブロミンは局所殺菌剤としての用途が最も良く知られている。傷に処置した場合、皮膚は鮮やかな赤色に染まる。メルブロミンはその「異常な価格の安さ」のため、特に発展途上国では未だに重要な殺菌薬である。

 

「赤チン」は傷口に塗ると赤色になることから「赤チン」の愛称で長年、親しまれてきた「マーキュロクロム液」と呼ばれる消毒液です。昭和の時代には各家庭や学校に常備薬として置かれ広く使われてきました。

 

「赤チン」は原材料を製造する過程で水銀を含んだ廃液が出ることから原材料の国内生産は1970年代に中止されました。このため最大でおよそ100社あった製造会社は減少して、2020年から「赤チン」の製造が法律で規制されることになり、生産を終えることになりました。

足踏みミシン


                                    昭和のあの


              過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                   それによって、心に喜びを感じさせる。
                   不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


             その16     足踏みミシン

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足踏み式ミシンとは

1960年代までは人力のミシンが主流であった。足踏み式や手回し式などがある。足踏み式ミシンとは、人の足先の上下反復運動を回転運動へと変換する仕組みのもので、踏板・ピットマン棒・ピットマンクランクなどの機構を持つミシンである。(フットスイッチでオン・オフする電動ミシンではない。)

 

電動式ミシンの登場によって次第に使われなくなっていった。が、一旦足踏み式の熟練者になった者の中には、あえて電動ミシンを使わず、足踏みミシンを好んで使う人もいる。熟練者だと、足先の微妙な感覚などでクランクの細かい角度、クランクを停止させる位置まで自分の身体の一部のようにコントロールでき、針を望んだ位置でピタリと停められ、また足だけで逆回転に入れることもできるからである。

 

とは言え、それは熟練者の場合であって、慣れるまでがかなり大変で、初心者・中級者には電動ミシンのほうが簡単なので先進国ではほとんど使用されなくなった。だが、足踏みミシンは電気が不要なことが発展途上国内の電力供給のない地域での使用に有効なことが再評価され、NGOの努力などにより収集され、発展途上国の人へと無償で譲渡されることが行われている。

御用聞き


                                    昭和のあの頃


              過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                   それによって、心に喜びを感じさせる。
                   不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                    その15        御用聞き

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御用聞き(ごようきき)とは、

訪問販売の呼び方の一種である。
一般には有店舗販売を行っている店が行い、商品や役務の受注を得るため、得意先を定期的に周り、受注を行う。所謂ルートセールス

 

特に目立つ御用聞きは昭和期のテレビドラマなどで馴染みのある三河などで、得意先に定期的に巡回して商品の注文を受ける。江戸時代から昭和期にかけての時代をドラマ化したものに多く登場し、老舗などが行うさまが映し出されている。

 

現代では言葉自体が廃れたものの、運送業などが受注の多い顧客を定期的に回るなど業種が変わっても一般的に広く行われている行為でもある。また店頭に買い出しに行く事が困難な老人の増加に伴い、生活協同組合他の小売店による宅配(純粋な通信販売と異なり、納品時に次回以後分の発注を受け、定期巡回を行う事がある)という形で、復活しつつある。