河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

巧言令色


   
                                         四 字 熟 語


                                   巧言令色 (こうげんれいしょく)
                                 

「あいつは巧言令色だからな」といわれたら、信用出来ない、相手にしたくない、という批判否定の意味になる。巧言は実のともなわぬ口先だけの綺麗事、令色は顔の表情を良くする意で、相手に気にいられるように言葉をうまく飾り表情をうまくつくろって相手の気を引く、これが巧言令色だ。

 

論語』では孔子の教えとして、「巧言令色すくなし仁」 とバッサリ斬り、「剛毅木訥(意思強固で飾り気なく無口なこと)は仁に近し」という。儒教が信奉されて以来いまだに日本では、言葉や顔色で人に媚びへつらう輩を軽蔑している。

 

国際化のこれから、巧言令色を果たして悪いイメージだけで否定しきっていいのだろうか。口下手で表情に乏しい日本人は確かに巧言令色を嫌うが、ほどほどに押さえた巧言令色は外国人とつきあうには絶対必要だ。巧みな言い回し、上手な表情、生き生きした表情、人間らしさの溢れた顔つき、どれも人付き合いには欠かせない。
国際社会の会話術としては巧言令色をもっと評価してもいいと思う。

 

 

心機一転

                                心機一転 (しんきいってん)

っ                                 

              人は何かのキッカケで気持ちや心の動きがガラリと変わる。
 失恋が動機で勉強に打ちこむ、部下の裏切りをキッカケに事業に専心、会社を再建させるなど、受けたマイナスをブラスに転じる場合などは、心機一転という表現がぴったりである。

 

心気一転と書きたくなるが、ここは機でなくては意味が通じない。そこで、「心機一転、一から出直すことに決めた」という具合に、前向きの方向で使うのは良いが、「心機一転、彼は悪の道に踏み込んだ」とか、「親の死を契機に、心機一転あいつはホームレスの仲間入りした」などと後ろ向きの使用例はどうも感心しない。

 

この四字熟語は陽性で明るい希望のイメージだから、前向きに気持ちを入れ替えないと、心機一転とはいいにくい。夫婦喧嘩のあと、「雨降って地固まる。我々の夫婦も心機一転やりなおそう」。これは前進だからおかしくないが、「不倫は許せません。心機一転別れることに決めました」というのは後退で暗いから、しっくりこない。こういう使い方をしたら笑われそうだ。

 

 

油断大敵

  
                                       四 字 熟 語


                                油断大敵  (ゆだんたいてき)
                                 

    油断を戒めた先人の教訓。油断は大きな失敗のもとだから怖い敵である。
おのおのがた油断めさるな、というわけだ。子供のころ、油断大敵火がぼうぼう、などと遊びの中出もこれは使われていた。まさに油断は人生の大敵で、勝利目前のピッチャーが油断の一球に泣く、剣客も一瞬のスキが油断で斬られる、柔道も相撲も逆転負けは油断が原因かもしれない。

 

日常の暮らしでも、仕事、試験、事故など、とかく失敗は油断からうまれることは誰しも体験でわかっているにちがいない。昔の母親はだから、「油断しちゃだめよ。心を引き締めて慎重ね」と我が子におせっかいをやいたものだ。

 

選挙でも、現職の大臣がよく落選する。これも油断が一因だろう。大臣になったので本人も後援者たちも気が緩む、それで墜ちたということになる。
政界の名言に、「火事は最初の三分間、選挙は最後の三分間」。選挙はギリギリまで気を抜くな手を抜くな、という戒めである。

 

 

頭寒足熱


   
                                           四 字 熟 語


                                      頭寒足熱 (ずかんそくねつ)
                                 

 頭はのぼせない様にする、足は冷やさない様にする、これが最良の健康法だといわれる。冬場は特にここに留意し、頭部を冷やし、足部を暖めるようにしなさい、これが頭寒足熱だ、と私も教えられた。頭寒足暖ともいうが、即熱と書くのは間違い。

 

対人関係でも頭に血がのぼるとろくなことがない。「えーい、頭にきた」とやたら口走る人を見かけるが、カッカして頭部が熱くなると判断を誤り失敗を招く。上司や先輩などが、「頭を冷やして出直してこい」というのも健康法の理にかなっているわけだ。

 

尚、頭にことよせた諺・格言は沢山ある。「頭隠して尻隠さず」をはじめ、「頭押さえりゃ尻あがる」「頭が動けば尾も動く」「頭の上の蝿を追え」など。
スピーチなどで使えるのは、「頭剃るより心を剃れ」。頭を剃って外見だけ僧になるよりも心を清く正しくせよ、外見より精神が大切との意味だ。
俗受けを狙うには、坊主頭になって反省の意を示す輩に向かって、「上を剃るより下を剃れ」だ。

 

 

同床異夢

  
                                        四 字 熟 語


                                        同床異夢 (どうしょういむ)
                                 

 床はユカではなく寝床のトコ。同じ床に寝ていても二人の夢は違う。転じて、同じ仲間同じ立場の同志でありながら、それぞれ思惑が違い目標や考え方を異にしていることを 同床異夢という。

これを夫婦にあてはめれば、男女とも無我夢中でベッドも夢もいつまでも一つでありたいと願うものの、そうはいかない。初めての夜から同床異夢が始まり、めったに 同床同夢なんてお目出度いことにはならない。結婚二十年もたてば、全くの同床異夢の連続だ。

意地悪く言えば、夫婦といえども死ぬまで理解しあえない別人格であるのが当然で、「夫婦は一心同体」なんて格言も、現代では「夫婦は二心二体」と言い換えなければ通用しない。そこまで露骨に言っちゃミもフタもないので、私どもの結婚式のスピーチは、「夫婦は一心同体、だがサイフは別」。

その昔、維新の志士がもらしたという「枕を共にしても計りがたきは女の心なり」は奥が深い。妻も恋人も女である。女性の心は男にとって永遠の謎だ。

 

 

大願成就

  
                             四 字 熟 語


                             大願成就 (たいがんじょうじゅ)

 

   年頭にあたっては、誰しもが一年の安定と幸福を神仏に祈りたい気持ちになる。
初詣の習慣は今や現代人のレジャーと化した。世界平和の実現や地球環境の救済なども大願であるが、受験も昇進も結婚も商売繁盛もマイホーム取得も、本人にとっては大きな祈願だ。仏教では、仏が衆生を救おうとする願いを大願というが、われわれ凡俗の世界では小さくても切実で身近な祈願こそ、大願である。それが成し遂げられ、実ることを大願という。

お賽銭の額と大願の関係だが、十円や百円で大願は成就しない。千円札や一万円札ではどうかというと、この程度で大願成就を祈るのも神仏に失礼だ。むしろ最小のお金で最大の効果をあげるには、五円で縁起をかつぐしかあるまい。大願と金額は無関係で、だいじなのは心だと勝手に思っていい。
満願成就というのもある。日数を決めて神仏に祈願し、その期間が終わって願いがかなうことをいう。念のため “小願成就” という言葉はない。

 

 

跳梁跋扈

                                                             
                                     四 字 熟 語


                      跳梁跋扈  (ちょうりょうばっこ)

 

    好ましくない連中が跳ね回り躍り出ることが跳梁跋扈である。
悪党どもが善良な人々を踏みにじって思いのままに振る舞えば、まさにこれは跳梁跋扈という形容にぴったりだし、嫌われ者たちが我が物顔にのさばって周囲のひんしゅくを買う、こういう状態ももまた跳梁跋扈である。

 

大江戸八百八町の夜をお上を恐れぬ怪盗凶盗の輩が跳梁跋扈すればこそ、鬼平こと長谷川平蔵の活躍があるわけだし、おなじみ銭形平次の出番もあるってものだ。
この字もまた難しいから、会話でもあまり聞かないし、文章でもたまにしかお目にかかれない。平仮名に直して使うほど応用範囲も広くないので段々影が薄くなっていきそうだ。

本来好ましからざる者専用の言葉だから、百鬼夜行などと同じくむしろ消滅したほうがいいのだろう。「政界には巨悪小悪が跳梁跋扈しておるではないか」と決まり文句で吠える評論家もいるが、耳に強く響くわりに内容が空疎に感じられないでもない。
時代劇のの世界でのみ元気ののいい言葉である。