河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

竹とんぼ

 

                          昭和のあの頃


                    過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                         それによって、心に喜びを感じさせる。
                         不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                    その34      竹とんぼ

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竹とんぼ(たけとんぼ、竹蜻蛉)とは、回転翼と翼をまわすための軸によって構成される中国と日本の伝統的な飛翔玩具である。

 

中国に古くからあり、東晋時代に葛洪が著した道教と煉丹術の文献『抱朴子』にも「飛車」というものがでてくる。15世紀にはヨーロッパに伝わったとみられ、聖母子像の中にはこのような玩具を持った絵もあり、ルネサンス期のヨーロッパの芸術やレオナルド・ダヴィンチにも影響を与えている。このことから中国学者のジョゼフ・ニーダムらは竹とんぼはヘリコプターの始祖となったとしている。

 

日本では奈良時代後半頃の長屋王邸跡から類似の木製品が出土しているほか、平安時代鎌倉時代の遺跡数ヶ所からの出土例もあるが、腐敗しやすい木製であるため例は限られている。

竹を切り出してプロペラ状の竹片とし硬い竹ひごを軸となる心棒として取り付けたもの。名が示すとおり本来は竹製玩具であるが、プラスチック製など材質を変えたものもある。心棒を両手の手のひらでこすり合せるように回転させてプロペラの揚力で空へ飛ばす。推進力は軸部分を回転させることで得る。
離陸時に与えられた回転力が慣性力として蓄えられ上昇する。慣性力による回転力が失われると下降するが、下から上に流れる空気により翼は回転し、オートローテーションの効果で滑空しながら下降する(自由落下では無い)。


      https://www.youtube.com/watch?v=1JsTNaldFuU

紙芝居

 

                                         昭和のあの頃


                       過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                            それによって、心に喜びを感じさせる。
                            不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                           その33   紙芝居

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紙芝居(かみしばい)は、物語ごとに複数枚を一組に重ねた絵で、その絵を一枚ずつ出して見せつつ演じ手が語りながら進める芝居的な芸能。主に子供たちを対象にしたもので世界に類を見ない日本の芸能である。明治以降存在した「立絵」の紙芝居と、世界恐慌時代に立絵が廃れた後で誕生した「平絵」の紙芝居とに大きく分けられるが、今日では単に「紙芝居」と言う場合平絵の紙芝居を指す。

 

昭和の戦中期では、子供へ絶大な影響力、洗脳力があることから、『軍神の母』(日本教育芝居協会)など「国策紙芝居」も作られ、戦意高揚に役立てられたことは事実である。紙芝居屋は子供たちからは紙芝居のおじさんと呼ばれていた。紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回って、拍子木を打ったり法螺貝を吹いたりして子供を集めて駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。紙芝居のおじさんはたいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。

 

紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。姜竣という学者は、農村には紙芝居はなかったとしている。

 

近年ではラオスベトナムなどに紹介され、作られ楽しまれるようになってきている。また、国際協力NGOのジョイセフなどを通じてタンザニアの村にてエイズ教育活動に紙芝居が用いられている。

置炬燵

 

                                    昭和のあの頃


               過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                   それによって、心に喜びを感じさせる。
                   不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                     その32        置炬燵


 自由に移動できるこたつ。底板のあるやぐらの中に、炭火をいける陶器を置いたもの。

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炬燵(火燵、こたつ)は、日本の暖房器具(一部の外国にも類似の器具が存在する)。
床や畳床等に置いた枠組み(炬燵櫓、炬燵机)の中に熱源を入れ、外側を布団等で覆って局所的空間を暖かくする形式である。熱源は枠組みと一体になっているものと、そうでないものがあり、古くは点火した木炭や豆炭、練炭を容器に入れて用いていた。現在は電気装置(電気こたつ)が多い。

 

脚を曲げて腰を掛けることができるよう床を切り下げている掘り炬燵(切り炬燵ともいう)と、床が周囲と同じ高さの平面の置き炬燵とに分けられる(ただし、台を設ける床置きの掘り炬燵もある。暖気が逃げないようこたつ布団を広げてかぶせ、炬燵櫓の上には、こたつ板(天板)を置いて、机やちゃぶ台のように使うことが多い。以前は天板の裏がラシャ張りになっており麻雀卓として利用されたが、麻雀人口と正方形の炬燵がともに減少したため、このような天板は稀になった。

 

「住みつかぬ旅の心や置炬燵/芭蕉
        去ね去ねと人に言はれても、なほ喰ひ荒らす旅の宿り、どこやら寒き
   居心を侘びて

街頭テレビ

                                        昭和のあの頃


                    過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                         それによって、心に喜びを感じさせる。
                         不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                     その32    街頭テレビ

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街頭テレビ(がいとうテレビ)は、不特定多数の人が集まる場所に設置され、無料で視聴できるテレビ受像機である。テレビジョン放送およびテレビ(製品)の普及初期には随所に置かれ、大変な人気を博した。

 

日本テレビは開局当時からコマーシャルを収入源としており、スポンサーを獲得するには、視聴者を一定数確保する必要に迫られていた。そのため、当時の日本テレビ社長・正力松太郎は、普及促進とスポンサー獲得のため、キャラバン隊による移動宣伝の他、繁華街、主要鉄道駅、百貨店、公園など人の集まる場所に受像機を常設し、テレビの魅力を直接訴える作戦に打って出た。

 

街頭テレビそのものは試験放送時代から幾つも存在していたが、大々的な展開は日本テレビが最初であり、小さい画面にもかかわらず、特に人気番組のプロレス中継・ボクシング中継・大相撲中継には観衆が殺到した(プロレス中継の際には実況担当が「街頭の皆さん、押さないで下さい」と呼びかけを行なった事もある)。都内各地に街頭テレビを据えた正力は、「台数は少なくても視聴者は多い」とアピールしてスポンサーを説得し、結果、開局7ヶ月で黒字化を達成した。

 

その後、街頭テレビの大成功に触発される形で、民放テレビ局が次々と開局し、街頭テレビをさらに普及させた。また放送局のみならず、受像機製造メーカーや販売店の側も宣伝目的で競って街頭テレビを設置し、自社製品の優位性を訴えた。

七 輪

 

                                        昭和のあの頃


                   過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                        それによって、心に喜びを感じさせる。
                        不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                         その31     七 輪

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七輪(しちりん、七厘)は、木炭や豆炭を燃料に使用する調理用の炉である。
軽量かつコンパクトで移動が容易。関西ではかんてきともいわれる。形状は円筒形、四角形、長方形が主で、大きさも様々で、用途に応じて多品種生産されている。原料は主に珪藻土で、微細な中空構造を持ち断熱性が高いため保温効果が極めて高く、本体は熱く焼けないため持ち運びに便利である。赤外線の発生量も多く熱効率が極めて高いため、燃料を節約できるという利点がある。

 

赤外線の発生量が多いため、特に焼き物料理(とりわけ焼き魚)に向き、近年では炭火焼き料理が主体の料飲店などでも簡便な調理器具として使われる。練炭による事故を避けるため、出荷時に「木炭コンロ」「練炭を使用しないこと」というラベルが七輪本体に直接貼られている場合も多い。かつては火鉢や炬燵などに使用する木炭や豆炭などに着火する為の道具として、調理用の熱源である竈(かまど)がある家であっても七輪が利用された。

ホームセンターなどではコストの安い日本国外で製造されたものも販売されているが、品質は値段相応である場合が多い。日本製の高品質な珪藻土七輪は日本国外でも人気が高く、アメリカや中国の通販サイトでも販売されている。アメリカではHIBACHI、あるいはHibachi Styleという名称で混同されているが、七輪の構造を元にした鋳鉄バーベキュー台なども開発販売されている。

オブラート


                                         昭和のあの頃


                      過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                           それによって、心に喜びを感じさせる。
                           不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                      その30     オブラート

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オブラート(オランダ語: oblaat)とは、本来は丸い小型のウエハースに似た聖餅のこと(硬質オブラート)で、本来はキリスト教のミサで使用される丸くて軽い小型のウエハースに似たせんべいのことで薬の服用にも使用されていた。

 

ただし、日本では一般的にデンプンから作られる水に溶けやすい可食フィルム(軟質オブラート)のことを指す。軟質オブラートは日本で明治期に独自に発明されたもので英語ではeatable paperという。

 

オブラートは、苦い薬を包み込んで飲むためと、菓子類のベタつき防止用という二通りの目的で利用された。昔の薬は苦かったから常備薬を持つ家庭だと、ちゃぶ台から手の届くあたりに大抵オブラートの丸い容器が置かれていた。飲みやすい薬が開発されるに至り、最近では、薬用オブラートをあまり見ることがない。

 

身近なオブラートとして思い出されるのは、紅梅キャラメル。赤い包装箱で10粒入り10円。あまり美味しくもなかったが、中に巨人軍の選手カードが入っていて、ホジション毎の9枚と監督(水原茂)を揃えると、バットやグラブなど豪華賞品が貰えるとの触れ込み。しかし、水原監督のカードの出現率がやたらと低かった。買っても勝っても揃わないので、子供達の万引きが増えだした。特定カードの出現率の低さを公正取引委員会も問題にした。かくして紅梅キャラメルは6年で消えた。

DDT


                                       昭和のあの頃


                  過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                       それによって、心に喜びを感じさせる。
                       不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                          その29      D D T

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DDT(ディー・ディー・ティー)とは、有機塩素系の殺虫剤、農薬である。日本では1971年(昭和46年)5月に農薬登録が失効した
1873年オーストリアの化学者オトマール・ツァイドラーによって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 

日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

 

現在、DDTは農薬としては使われていませんが、マラリアの感染対策のためにハマダラ蚊の防除に限って使用が認められています。現在、日本や先進国でDDTの製造や使用はしていません。しかし、アフリカやアジア、中南米などの国々では、ハマダラ蚊によって伝染するマラリアの疾患が問題です。そのハマダラ蚊防除にDDTが高い効果があり、また経済性の点からも替わるものがないため現在も制限を設けて使用しています。

 

私が小学生だった頃、頭髪が真っ白になるほど学校でDDTなどの噴霧がなされていたことを思い出す。厄介なのは、一度環境に出されたDDTなどの残留性有機汚染物質は、半減期が長いので、食物連鎖を通じて魚や肉などに残留し、いまだに人の血液中から検出されることである。
「史上最悪の農薬は、史上最強の救世主だった。」と云われています。