河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

七 輪

 

                                        昭和のあの頃


                   過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                        それによって、心に喜びを感じさせる。
                        不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                         その31     七 輪

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七輪(しちりん、七厘)は、木炭や豆炭を燃料に使用する調理用の炉である。
軽量かつコンパクトで移動が容易。関西ではかんてきともいわれる。形状は円筒形、四角形、長方形が主で、大きさも様々で、用途に応じて多品種生産されている。原料は主に珪藻土で、微細な中空構造を持ち断熱性が高いため保温効果が極めて高く、本体は熱く焼けないため持ち運びに便利である。赤外線の発生量も多く熱効率が極めて高いため、燃料を節約できるという利点がある。

 

赤外線の発生量が多いため、特に焼き物料理(とりわけ焼き魚)に向き、近年では炭火焼き料理が主体の料飲店などでも簡便な調理器具として使われる。練炭による事故を避けるため、出荷時に「木炭コンロ」「練炭を使用しないこと」というラベルが七輪本体に直接貼られている場合も多い。かつては火鉢や炬燵などに使用する木炭や豆炭などに着火する為の道具として、調理用の熱源である竈(かまど)がある家であっても七輪が利用された。

ホームセンターなどではコストの安い日本国外で製造されたものも販売されているが、品質は値段相応である場合が多い。日本製の高品質な珪藻土七輪は日本国外でも人気が高く、アメリカや中国の通販サイトでも販売されている。アメリカではHIBACHI、あるいはHibachi Styleという名称で混同されているが、七輪の構造を元にした鋳鉄バーベキュー台なども開発販売されている。

オブラート


                                         昭和のあの頃


                      過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                           それによって、心に喜びを感じさせる。
                           不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                      その30     オブラート

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オブラート(オランダ語: oblaat)とは、本来は丸い小型のウエハースに似た聖餅のこと(硬質オブラート)で、本来はキリスト教のミサで使用される丸くて軽い小型のウエハースに似たせんべいのことで薬の服用にも使用されていた。

 

ただし、日本では一般的にデンプンから作られる水に溶けやすい可食フィルム(軟質オブラート)のことを指す。軟質オブラートは日本で明治期に独自に発明されたもので英語ではeatable paperという。

 

オブラートは、苦い薬を包み込んで飲むためと、菓子類のベタつき防止用という二通りの目的で利用された。昔の薬は苦かったから常備薬を持つ家庭だと、ちゃぶ台から手の届くあたりに大抵オブラートの丸い容器が置かれていた。飲みやすい薬が開発されるに至り、最近では、薬用オブラートをあまり見ることがない。

 

身近なオブラートとして思い出されるのは、紅梅キャラメル。赤い包装箱で10粒入り10円。あまり美味しくもなかったが、中に巨人軍の選手カードが入っていて、ホジション毎の9枚と監督(水原茂)を揃えると、バットやグラブなど豪華賞品が貰えるとの触れ込み。しかし、水原監督のカードの出現率がやたらと低かった。買っても勝っても揃わないので、子供達の万引きが増えだした。特定カードの出現率の低さを公正取引委員会も問題にした。かくして紅梅キャラメルは6年で消えた。

DDT


                                       昭和のあの頃


                  過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                       それによって、心に喜びを感じさせる。
                       不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                          その29      D D T

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DDT(ディー・ディー・ティー)とは、有機塩素系の殺虫剤、農薬である。日本では1971年(昭和46年)5月に農薬登録が失効した
1873年オーストリアの化学者オトマール・ツァイドラーによって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。

 

日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。

 

現在、DDTは農薬としては使われていませんが、マラリアの感染対策のためにハマダラ蚊の防除に限って使用が認められています。現在、日本や先進国でDDTの製造や使用はしていません。しかし、アフリカやアジア、中南米などの国々では、ハマダラ蚊によって伝染するマラリアの疾患が問題です。そのハマダラ蚊防除にDDTが高い効果があり、また経済性の点からも替わるものがないため現在も制限を設けて使用しています。

 

私が小学生だった頃、頭髪が真っ白になるほど学校でDDTなどの噴霧がなされていたことを思い出す。厄介なのは、一度環境に出されたDDTなどの残留性有機汚染物質は、半減期が長いので、食物連鎖を通じて魚や肉などに残留し、いまだに人の血液中から検出されることである。
「史上最悪の農薬は、史上最強の救世主だった。」と云われています。

旅芸人

 

                                          昭和のあの頃


                    過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                          それによって、心に喜びを感じさせる。
                          不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                           その28   旅芸人

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旅芸人(たびげいにん、英: itinerant performer)とは、旅をしながら芸をする芸人、またはそれを行う事で金銭を得、生計を立てている人。

 

日本各地を旅し、芸を見せて身を立てる芸能者。演劇や大道芸などさまざまな種類があるが、巡業する大衆演劇「旅役者」とか「旅の一座」という。基本的に拠点を持たず、九州、関西、関東などと全国を回り、1カ所に1、2カ月単位で滞在し、各地の芝居小屋や公共施設などで公演する。内容は新劇や歌舞伎を中心とした演劇が多い。舞台上の華やかさにくらべて地道な生活を送る人たちが大半を占めるが、なかにはテレビに出演するようなスターもいる。

 

身分制度の厳しかった江戸時代において、芸人は蔑まされる存在ではあったが、旅の制約のあった一般庶民と違い、旅芸人は関所手形を持っていなくても、芸を見せて芸人であることを証明できれば、関所を通過することができた。定住を基本とする共同体においては、旅芸人のような漂泊する者は異端であり、そうしたマレビトの来訪は、神であり乞食の来訪として、畏敬と侮蔑がない交ぜとなった感情を生じさせた。明治以降も旅芸人は季節の折節に村々に現れては芸能を見せ、日本人の暮らしの季節感を彩る存在だった。

蝿取りリボン


                                      昭和のあの頃


                過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                     それによって、心に喜びを感じさせる。
                     不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


             その27        蠅捕りリボン

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蠅捕りリボンは、あくまで蠅を駆除対象とするが、実際には小型飛翔性昆虫を区別なく捕らえる。否定的言い回しをするなら、害虫以外も捕らえてしまう。
世界には平紙の形状(シート形状)のものを始めとして様々な蝿取り紙がある。

 

日本では、蝿取りリボン、リボン蝿取りとも呼ばれるリボン状の吊り下げタイプが開発されて以降、このタイプが蝿取り紙の形状として独占的なものとなった。英語では "fly ribbon(日本語音写例:フライ リボン)" と呼ぶこのタイプは、天井など高所から広い空間に垂れ下がるように吊るすことで、そういった場所に留まりたがる飛翔性昆虫の習性を利用して捕らえる。

 

主にロジンと油(ひまし油など)などを原料とする粘着性の強い粘性を持った液体がシートに塗布されており、これに接触した昆虫など小動物がベタベタ粘りつくことで捕らえられる。これは所謂接着ではないため、揮発性の高い溶剤が乾くことで固化しないようになっており、概ね塗布された液体の面が出ている限りは対象を捉えることが出来るが、大抵は(大量の虫が貼り付いている状態は見た目の上でも衛生的に見えないなどの事情で)ある程度の期間が経ったら新しいものに交換される。

 

強い粘着力を持つため、人や動物が誤って触れると容易に取れなくなるので注意が必要である。また、風が吹き抜ける場所では埃や葉屑などのゴミが付着して機能が早期に低下することにも留意しなければならない。

五 徳


                                       昭和のあの頃


                   過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                       それによって、心に喜びを感じさせる。
                       不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                          その26    五 徳


五徳(ごとく)は、炭火などの上に設置し、鍋やヤカンなどを置くための器具。

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具体的には炉(囲炉裏、火鉢、七輪、焜炉、等々)の熱源上に置いて、鍋、やかん、土瓶、鉄瓶、焼き網などを乗せるために用いられる支持具をいう。

古来、日本では、囲炉裏において鍋や釜で煮炊きをするときは自在鉤と五徳のいずれかを用いた。初期の五徳は三本足であり、環を上にして用いた。これは古くは竈子(くどこ)と呼ばれたもので、古代の中国の鼎に由来するものである。現代でもよく知られる形状の五徳は、桃山時代千利休の指導下で茶釜などの開発に当たった釜師たちによって生み出された。すなわち、茶道の始まりと共に室内で用いる小型の炉「茶炉」または「風炉」が現れ、このとき、竈子を従来とは逆向きに設置し、爪を上にして使うようになった。この過程で「くどこ」の読みも逆さまにされ「ごとく」と呼ばれるようになった。「五徳」は当て字である。

尚、 「五徳」という言葉の本来の意味は、儒教における「仁・義・礼・知・信」の五つの徳を指す言葉である(または論語の「温・良・恭・倹・譲」、孫子の 「智・信・仁・勇・厳」などもある)。

学校給食


                                        昭和のあの頃


                 過ぎ去った遠い日々に、思いを馳せる。
                      それによって、心に喜びを感じさせる。
                      不安なコロナ時代、良かったことを考えながら。


                         その25    学校給食

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学校給食の起源は明治22年(1889年)山形県鶴岡町の小学校で貧困家庭の児童を対象に無料で昼食を提供したことにあるとされています。 それ以後、全国に広まり、昭和29年(1954年)6月に「学校給食法」が制定され正式に制度が始まりました。その後、児童生徒の食生活をとりまく社会環境は大きく変化し、現在ではカルシウムの不足、脂肪の過剰摂取など偏った栄養摂取、肥満等の生活習慣病の増加など、食に起因する新たな健康課題が増えてきています。学校給食は、生涯にわたって健康で充実した生活を送るための基礎を培う健康教育の一環として、その指導の重要性が一層高まってきています。

学校給食のねらいは、毎日を健康でいきいきと生活できるようにするために、食事、運動、休養の調和のとれた生活習慣を身につける必要があることを伝えることにあります。特に、心身ともに成長発達の途上にある児童生徒にとって、栄養バランスのとれた食事を一日3回きちんと摂り、合理的に栄養を摂取することは健康な生活を送る上で基本となるものです。また、家族や友人と和やかに食事をすることは、豊かな心や望ましい人間関係を育成する上からも、大切な役割を果たすものであります。

小生の給食の想い出は、コッペパン脱脂粉乳、おかずとしては鯨肉」です。家で美味しい牛乳をとっていたので、脱脂粉乳の不味さに辟易した毎日だったのです。