河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

一視同仁

 
                                     四字熟語


                           一視同仁  (いっしどうじん)


   手っとり早くいえば、差別待遇をしないこと、これが一視同仁である。
全ての人を分けへだてなく平等に愛し慈しむ、これはなかなか出来ることではない。
中国の古書にも、「是故聖人 一視而同仁」とあるように、全ての人を平等に扱い同じような仁愛をほどこす一視同仁の態度は、聖人でなくては不可能ともいえる。この四字熟語が日常会話であまり使われないのも、そんな背景があるのかも知れない。

 

もっとも「仁」そのものも易しくはない。仁とはなにか。仁は孔子の思想の基本だが、論語』によれば、慈しみ、思いやり、哀れみなどのイメージで、「巧言令色少なし仁」、「剛毅木訥は仁に近し」というやや対照的な二つのフレーズはあまりにも有名である。

 

仁という言葉を会話で使う人はほとんどいないが、病院なら全国至る所で見かけるのではないか。同仁病院、仁愛病院など昔ながらのいかにも病院らしいネーミングだ。
この仁が孔子の教えであり、一視同仁が儒教の考え方であることも今は忘れられている。

 

 

判官贔屓


                                     四字熟語


                             判官贔屓 ほうがんびいき)


判官はハンガンとも読むので、ハンガンビイキと発音する人も多いが、本来はホウガンビイキ。もっとも最近はハンガンビイキ派のほうが多数とみえ、五月蠅く言わない。
判官源義経が薄幸の悲劇の主人公だったことから、弱者や不運な人に同情し、味方する庶民的感情を判官贔屓という。

 

大衆の心理は面白いもので、負けるとわかっている勝負でも弱いほうに声援をおくり、万年最下位のような弱小チームでもファンは多い。意地悪な見方をすれば、これは優越感の裏返しかも知れない。

 

ところでハンガンビイキでもいいし、ホウガンビイキならなお物知り風でいいと思うが、どちらも許すという風潮が日本語の平易化をうながしているようだ。
例えば、早急はソウキュウでもサッキュウでもいい。じゃ奥義はどうたろう。これもオウギと読むべきところ、今はオクギでも通用するし、実はどちらも正しいのだ。

 

 

七転八倒

 

                                    四字熟語


                          七転八倒  (しちてんばっとう)


七へん転んで八度倒れる、すなわち苦痛のため転げまわって苦しみもがくさま、これが七転八倒だ。七転は七顛とも書いたが、発音はシチテンまたはシッテン。「胃痛で七転八倒の苦しみを味わったよ」という使い方が普通である。

 

年配者の会話にはよく出てくるが、若い人はこういうオーバーな表現が苦手とみえ、使いたがらないようだ。会話そのものがダサイ感じになるのかも。形は似ているが七転八起という四字熟語もある。これはシチテンハッキまたはナナコロビヤオキと読み、七たび転んでも八たび起きること、すなわち何度失敗しても挫けずにまた立ち上がり努力を続ける意味になる。

 

彼の人生は七転八起の連続だった、というような苦労と不運のの主が私の周りにもいるが、転んでは起き、起きては転びの連続だからといって、転ぶ回数が七回で起きる回数が八回というわけではないのは勿論だ。七と八を重ねることで回数の多さを強調したものだから、数にこだわる必要は全く無い。七転八倒も七転八起も

 

 

我田引水

  
                                 四 字 熟 語


                                 我田引水 (がでんいんすい


         読んで字のごとし。我が田に水を引くこと。
田に水は不可欠だから、たとえ強引な手段であっても水を引き込みたくなるのが人情で、転じて現代の使い方は、もっぱら自分の都合のいいように話したり、物事を運んだり、自分のことばかり考えて万事を取り計らう、これが我田引水である。

 

手前勝手という直接的な表現もあるが、これより我田引水を使うほうが表現に重みが加わるとみえ、日常会話でもさかんに使われる。「やや我田引水の気味はありますが、この場は私でないとおさまりませんから自薦します」と売り込んだり、「あの先生の理論は我田引水で説得力がない」などとも使う。

 

我田引水はもともと批判的な意味あいが強く、自ら使用する時は謙遜が込められていたが、現代人は誰しもこの傾向が強くなる一方で、いわば我田引水が当たり前の生き方になってきた。「我田引水でなぜ悪いんだ」と個性の強い人たちは、むしろ開き直ってこの言葉を愛用することもあるが、これが度を越したら嫌われる。

 

 

佳人薄命


  
                                 四 字 熟 語


                                          佳 人 薄 命 


美人のモノサシも時代とともに変わってきたが、美人が必ずしも薄命でないのも世の常だ。佳人薄命の佳人はいわゆる美人のこと。美人は生まれつき不幸で病弱で短命だから真の幸福はつかめない、というのが表の意味で、裏には、だから美人でないほうが幸福だ、この慰めと美人へのひがみ、ねたみが厳然としてある。

 

美人が薄命でなくなった現在、この四字熟語もすたれる運命にある、と言えるだろう。
それにしても、男はどちらかといえば美人好みだし、女性はおしなべて美人に白い目を向ける。お高い、澄ましてる、いじわる、扱いにくい、どれも一部はあたっていようが、不美人だって似たようなものだから、男はやはり美人に目が行く。いかに悪口と批判にさらされても美人はやっばり得である。

 

その証拠にテレビのキャスターやアナウンサーはみな美形ではないか。しかし性格の悪そうな連中が目立つ。せめて不美人派の立場でイッパツかましてやりましょう。
            美人薄情、ブス不滅、と。

 

 

清廉潔白


                                        四字熟語


                           清廉潔白 (せいれんけっばく)


「私は清廉潔白だ。何一つ後ろ暗いところは無いし、良心に恥じるところも無い」と大見得をきった直後にウソがばれる、政財界にはこういう事件がつきものだか、叩けば誰でも少しはホコリが出るのが普通だから、自ら清廉潔白と自負する人は少ない。むしろ自己弁護に使われる時のほうが多いだけに、折角の綺麗な語もやや汚れた感じてある。

 

心や行いが清らかで私利私欲(自分の利益をむさぼること)が無く不正も後ろ暗さもなくて真っ白の身、これが清廉潔白だから、これは他人が評してくれてこそ値打ちがある。
とはいえ疑惑が生じ、あらぬ噂がたてられた時には立ち上がらざるを得ないのが人間だから、「噂は事実無根だ。根も葉もない噂で迷惑している」と声を大にして潔白を主張する。

 

それが事実であるという根拠が全く無い場合を事実無根というが濡れ衣を着せられるのは不徳の致すところ、火のないところにに煙はたたずで、自ら清廉潔白と称する人はウサンくさい、思ってよいのでは。

 

 

色即是空


                                      四字熟語


                            色即是空 (しきそくぜくう)


      言葉は有名だが、なにしろ仏教の思想だから意味は難しい。
上辺の解釈だけにしておくと、普通「色即是空、空即是色」と対句のような形で用いられ、色即是空とは全て形のあるもの、物質的なものはその本質がみな実体が無く空(くう)である、空(むな)しい存在であるということ

 

反対に空即是色は、宇宙万物すべて本質においては実体がなく空であるが、その空であり実体が無いこと自体がそのまま目に映る一切の事物である、こういうややこしい理屈になる。仏教用語だけに、空をソラ、色はイロという単純な意味に取ると、全くトンチンカンになって日本語だって使いこなせない外国人用に、これを翻訳するのは至難である。

 

我が国の実力政治家がアメリカ人記者団に、難しい日米交渉に臨むにあたっての心境を聞かれ、「色即是空」とやった。通訳がどう訳していいのかとまどっているので、実力政治家が横から助け船を出し、色即是空を記者団にズバリ訳してみせた。
「カラー・イズ・ザ・スカイ」。あまりの直訳に座はいっそう混乱してしまったとのこと。