河原文翠の日々是好日

降っても 照っても 日日是好日。泣いても笑っても 今日が一番いい日。

曲学阿世


                                四 字 熟 語


                                        曲 学 阿 世   


かつてはよく使われた四字熟語だが、最近ではマスゴミでもほとんど見かけない。
マスゴミそのものが曲学阿世の徒になりさがった証明であろう。 曲学は文字通り真理をゆがめ学問を曲げること、阿世は世間におもねるという意味だ。 そこで曲学阿世とは、人気や金品を得るために学問や真理をゆがめて説き、時流にへつらい世間に媚びる、こういう連中を非難する時に使う。

 

学者や評論家などが偉そうにかまえて実は私利私欲に走り、正しい主義主張もどこへやら世俗的な利益に目がくらむ 、そんな時は世論の集中砲火を浴びたものだが、 現代では誰しもがこの傾向で反省のかけらもないから言葉自体の影が薄くなったのかもしれない。

 

ちなみにテレビに出てくる先生たちはほとんど、曲学阿世の徒と断じて差し支えない。
そうでなければ、マスゴミには登場出来ないからだ。科学者などにも企業の丸抱えを希望して曲学阿世に方針転換する人がいる。学問や真理より、人気や金品のほうが魅力がある以上、これもやむを得ないと割り切るべきだろう。

 



興味津々


                                    四 字 熟 語


                                          興 味 津 々   


           これには珍談がいくつもある。
大学出のサラリーマンでもうっかり、興味森々と書いてしまう。結構な身分のご婦人が、「興味ツツの出来事でございますわねぇ」などと平然と言う。全国津々浦々という表現がこびりついているため、津々をシンシンでなくツツと覚え込んでしまったのであろう。

興味津々とは、興味が次から次へと湧いてきて尽きないさま。この反対は興味索然で、興味が消え失せて白ける事。この頃は興味しんしんと書く人も多いが、これなら間違いない。

 

漢字の読みは、とかく思い違いが少なくない。後手にまわる、これをゴテでなくウシロデと読んだり、剣が峰をケンガ峰でなくツルギカ峰と誤読したり、ついつい引っかかる例がある。薬局に来る客の十人に八人は、解熱剤を買いにきながら「カイネツ剤ください」と言うとか。これを責めるのは今や酷というもの。

漢字名の商品にはこういう珍談がつきまとい、錦卵キンタマゴ、金地金をキンチキン、喘息をタンソク、心太をシンタ、田作をタゴサクと読む客が結構居るそうな。

 

 

天地無用


                                    四 字 熟 語


                                       天 地 無 用   


                    これは不思議な四字熟語だ。
天地が無用ってことは天地がいらないことだと早合点する人も中にはいるが、荷物などにこれが張り紙してあるところを見れば、無用という意味ではないらしい。なるほど天地を荷物の上と下と解釈すれば、これが無用、すなわち関係ないことだから上下逆さまにしてもかまわないってことか、なんて早トチリもある。

 

正解は荷物などの上下を逆さまにしてはいけない、破損する恐れがあるという注意書きなのだ。だから普通は赤で天地無用と印刷してある。真面目に文字を追って解釈したら、かえって反対になってしまうというヘンな例である。

 

食間服用と指示したクスリがあるのをご存じだろう。これは食事と食事の中間に服用しなさい、ということだが、真面目すぎる人が食間を食事の間とと解釈して、食べながらクスリを飲んだ、こんなバカ話を聞いた。そういえば、有名な酒池肉林を「酒と女の大宴会」だなと受け取った人がいる。これはむしろ文字通り酒とお肉の宴会で、肉は女性を意味していない。

 

 

乾坤一擲


                                    四 字 熟 語


                                         乾 坤 一 擲   


女性はあまり使わない。男が勝負をかける時に使うと思ってよい。男が運命をかけてのるかそるかの大勝負を挑む、これが乾坤一擲だ。大仕事よし、大勝負よし、イチかバチかなんて場面はみんなこんな感じであろう。乾坤は天と地のこと、一擲はサイコロを投げること。表現がやや時代がかっているので現代のドラマではあまり使われないが、時代小説の中にはしばしば登場する四字熟語である。

 

ギャンブルなどで、「ようし、最後の運命をかけて乾坤一擲の勝負だ」などと使うこともあるが、これはオーバーで迫力がない。遊びごとでなく、男の人生がかかっているような対象に使ってこそ雰囲気が出る。「ほう、彼が選挙に出るのか。乾坤一擲の勇気は買うね」といえば、いかにも選挙が大事業のように思えて格好がつく。とはいえ日常会話では、昔ほど使われなくなったのも確かで、特に若者は似たようなケースでも別の表現を好む。例えば「一発勝負」とか、「決死の大勝負」とか、乾坤一擲とはかなりニュアンスが違ってきた。

 

 

山紫水明


                                      四 字 熟 語


                                          山 紫 水 明   


「この連休は山紫水明の地に行ってみたいね」と老人が言う。若い連中は聞いただけでは意味不明、漢字を見てなんとなくわかる。読みくだせば、山は紫で水は清い、美しい自然のことかな、と見当がつくわけだ。山紫水明とは、日に映えて緑の山は紫にかすみ、川の水が清く澄み切ってはっきり見える、誠に美しい自然の風景を形容した四字熟語である。

 

ただし感覚的にどうも古い。今どきこれじゃ笑われそうなので、老人たちも若返ったつもりで、「風光明媚なところで、命の洗濯をしてみたいね」、これなら現代の観光用語である。風向は景色とか眺めのこと、明媚は山や川が清らかで美しいこと、つまり自然の風景の美しさを風光明媚と形容するわけで、山紫水明もこれも根っこは一つと思っていい。

 

古くから今に至っても使われるものとして、深山幽谷は覚えておいたほうがいい。奥深い山と奥深い静かな谷のことだが、人跡まれなる静かな自然のたたずまいは、このほかにふさわしい表現が見あたらない。

 

 

慇懃無礼


                                       四 字 熟 語


                                           慇 懃 無 礼  


こういう人は嫌われる。表面はあくまでも丁寧だが、心の中では無礼きわまる、尊大そのもの、これじゃ相手が不愉快になる。高級官僚やお金持ち夫人に典型的なこのタイプが多いが、これを慇懃無礼という。

 

本人はそのつもりでなくても、丁寧すぎると、かえって無礼になることもあるから、人づきあいは難しい。「あんまり下手にでると、かえって慇懃無礼になるから注意しろよ」などと社員教育で教える上役もいる。

 

同傾向のお役人を評した四字熟語に面従腹背というのがある。サラリーマン社会でもこの手の危ない部下がいるようだか、表面では服従するように見せかけ内心では背く、反抗する、裏切ってる、こういう連中を一括して面従腹背と称するが、親子や友人知人間ではあまり使われない。日本的な上下関係の中で、昔から今に至るまでこの言葉が生き続けている背景をさぐってみると、封建社会の悪しき名残が感じられ、個人的には慇懃無礼面従腹背も好きになれない言葉だ。

 

 

丁々発止


                                       四 字 熟 語


                                            丁 々 発 止  


テレビのトーク銀組でも、出演者たちが真剣に議論をたたかわせている様子は、見ていても気持ちがよく好感が持てるものだか、こういうやりとりを丁々発止という。元は刀で互いに激しく斬り合う音、またはその様子をこういった。発止は発矢とも書くし、丁々は打々でもいい。「朝の会議はすごかったね。社長と専務が丁々発止渡りあってさ」という使い方がポピュラーである。

 

この反対に近いやりとりが、愚問愚答の繰り返し、隔靴掻のもどかしさ。愚問愚答は読んで字のごとし、つまらない質問とくだらない回答、つまりはお粗末きわまる問答のことだ。国会中継で見られる予算委員会のやりとりなどこの傾向がある。

 

隔靴掻痒は会話ではよく使うが、書くとなると至難の業で、私なども正しく書く自信がない。靴の上から足のかゆいところをかいたってどうにもならない様に、物事が思うように運んでくれなくてもどかしいこと。議論がどうにも噛み合わず歯がゆくて腹が立ってくる感じか隔靴掻痒である。